涙の金メダル(1)

 スイミングスクールも、はじめは、少し泳ぐと足がだるく、他の人について行けませんでした。高校3年のとき、水泳部に籍をおいたこともあり、泳ぎには自信がありましたが、体力の衰えをつくづく感じました。大病をしたあとですから、無理もありません。ただ泳げるだけで、とても幸せでした。死の床から甦ったのだといううれしさで一杯でした。それでも二、三カ月もしたら他の人について泳げるぐらい体力もできてきました。スクールのお友達もでき楽しく、こんなに元気になれたのだという実感を満喫できるようになりました。

 スクールへ通い出して半年近く経った頃、
「今日は皆さんのタイムを計ります」
 と、コーチにいわれ、私も力一杯泳ぎました。すると、私よりはるかに体力があると思っていた人より、私の方がタイムがよかったのです。

 先生から近々開かれるセントラルスポーツクラブの「マスターズ関西ブロック」の水泳大会に出てみないかと、誘われました。関西ブロック大会とはいえ、各地のクラブの代表が集まって来るのですから、病みあがりの私など、とても無理だと思いました。恥をかきに出るようなものだからと、おことわりしたのですが、遊びと思って気楽に出たらよいといわれ、試しに出てみることにしたのです。

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この記事は昭和62年10月発行の書籍『「主治医」はだんなさま』より転載しています。


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