第四章 生命きらめく

  • スイミングスクールに挑戦(1)


     病院には、まだ定期的に検査に行っておりました。動注を抜き、完全に抗癌剤と縁が切れると思ったのですが、『5FU』の飲み薬を当分飲むようにといわれました。フトラフールのカプセルとか、座薬もありました。しかし、自分なりに勉強 […]

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  • スイミングスクールに挑戦(2)


     ちょうどその頃、週刊誌に手術をして下さった先生の免疫療法の記事が出ることになり、また「患者の代表として取材に応じてほしい」と頼まれ、もう一人の、やはり卵巣癌だった人と一緒に取材に応じました。  その方は、運よく子宮筋腫 […]

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  • スイミングスクールに挑戦(3)


     一緒に週刊誌に出た人は、私ほど高熱は出ず、何か月間か続けていたら慣れて熱も出なくなったといっておられましたが、その方は、その年の暮に亡くなられてしまいました。私より少し若い方で、本当に元気にしておられたのに、どうしてそ […]

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  • 涙の金メダル(1)


     スイミングスクールも、はじめは、少し泳ぐと足がだるく、他の人について行けませんでした。高校3年のとき、水泳部に籍をおいたこともあり、泳ぎには自信がありましたが、体力の衰えをつくづく感じました。大病をしたあとですから、無 […]

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  • 涙の金メダル(2)


     会場には、京都、兵庫、大阪、奈良、名古屋など各地の代表が集まっていました。  高校時代を思い出し、その日はさすがに緊張しました。年齢別のタイムレースになっていて、私は、自由形と平泳ぎとリレーの三種目に出場しました。その […]

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  • 涙の金メダル(3)


     普通の健康な人でも、私ぐらいの年齢になると、スポーツなどとんでもないと思っている人が多いようですが、いくつになっても何かに挑戦しようとする気持ちはもたなければと思います。  水泳を始めて7年過ぎましたが、休まず続けてい […]

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  • 再度のテレビ出演(1)


     二度目の水泳大会に出場した頃、婦人公論から私に『癌闘病記』の手記の依頼があり、12月号に掲載され、全国から大変な反響がありましt。たくさんの方から、お手紙やお電話をいただきましたが、そのほとんどがいろいろ手を尽くしたが […]

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  • 再度のテレビ出演(2)


     1月の末、ディレクターの方が一人で来られて、私の体験談を聞いて帰られました。一週間後、カメラマンと助手の方と三人で来られ、私が会社で元気に働いているところや、スイミングスクールで泳いでいるところ、家族だんらんの食事風景 […]

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  • 再度のテレビ出演(3)


     放映は2月16日(月曜日)の晩8時からでしたが、前の日に鎌倉の実家まで行きました。親戚の結婚式に出席するため東京へ行った際に立ち寄って以来のことで、実に13年ぶりの里帰りでした。  主人と二人で新幹線で行きましたが、大 […]

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  • 再度のテレビ出演(4)


     父や母は、年に一、二回は大阪のほうへ来ます、しかし、私は、結婚してもう29年になりますが、その間5、6回しか里帰りしていないのではないかと思います。よく夏休みなどに子供と奥さんだけ里帰りして、ご主人は会社を休めず、働い […]

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  • 再度のテレビ出演(5)


     昼食を済ませて、二時頃の電車で、東京へ行きました。テレビ朝日のスタジオは、六本木にあり、その横の全日空ホテルを予約して下さっており、その晩はそこへ泊まることになっていました。まだオープンして間もない真新しいホテルで、と […]

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  • 癌と知ってよかった(1)


     広いスタジオにはいろいろな役割の人が、20人以上はおられたと思います。横の”雛壇”には、番組中にかかる電話を受ける女性が100人ぐらいずらっと並んでいました。ライトが煌々と照らす中、久米宏アナウンサーが、テレビカメラの […]

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  • 癌と知ってよかった(2)


     続いて、癌の告知が是か非か、現在、癌の専門医として活躍しておられる先生の意見、賛否両論が紹介されました。その間、スタジオ直結の100台近い電話は全部話し中の状態で、応対する女性の声がザワザワと聞こえていました。  そし […]

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  • 癌と知ってよかった(3)


     その人の性格にもよるのでしょうが、私自身は、知ったほうがよかったと、今も思っています。一時は確かにショックを受けましたが、本当のことを知らされなかったら、そのうち治るだろうと、自分から治す努力をしなかったでしょう。主人 […]

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  • 癌と知ってよかった(4)


     現代医学の手術、化学療法、放射線療法、免疫療法や、それらをいろいろ組み合わせた集学的治療や温熱療法、血管塞栓術なども紹介されました。血管塞栓術とは、癌のあるところへ通じる動脈を塞いで、癌に栄養が届かないようにする、つま […]

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  • 癌と知ってよかった(5)


     翌日は、せっかく東京に来たのだからと、練馬区のほうにいる私の叔母の家を訪ねました。この叔母は、私の亡くなった母の妹で、母が亡くなってからはめったに会うこともなく、過ごしておりました。昭和18年、母が亡くなってから30年 […]

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  • 大きな反響に忙しい日々(1)


     家へ帰ったら、テレビの放映中に電話番号を調べて家へ電話をかけて下さった方が、何人かあったことを知りました。ほとんどの人が、癌患者をもつ家族の方で、もう医者からは助からないといわれているが、私のことをもっとくわしく知りた […]

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  • 大きな反響に忙しい日々(2)


     皆さん深刻な相談ばかりでしたが、私がスクアレンを飲んでいること、丸山ワクチンも5年間続けたこと、食事に注意すること、看病する人の心構え、患者の心構えなど、何時間もかけて話してさしあげると、「気持ちが明るくなった」と喜ん […]

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  • 告知の条件(1)


     テレビ局に寄せられた電話の中にも、「告知は正確な情報の第一歩ではないでしょうか」という意見がありましたが、私もそのとおりだと思います。  自分の病気がどんな病気なのか、今どんな状態なのか、どんな薬を飲まされているのか、 […]

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  • 告知の条件(2)


     また、癌であることを知らないと、どうしても平気で無理をしてしまうのが、こわいと思います。  本当のことを知り、死にたくないのなら、体に気をつけるはずです。  どうせ助からないのだからとまで思わなくても、本人がショックを […]

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  • 告知の条件(3)


     告知をするには、 「家族にとってあなたがいかに大事な人間か。今死なれたら、あとに残った者がどんなに悲しむか。まだまだこの世に必要な人間なのだから、絶対元気になってもらわないと困る。家族皆で応援するから、頑張ってほしい」 […]

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  • 神様が与えた試練(1)


     テレビ出演の後一カ月ほどして、テレビを見て藁をもつかむ思いで、私と連絡をとりたいという方々の、テレビ局宛に出された手紙の束が、テレビ局から転送されて来ました。読んでいて心につまされる内容のものばかりでした。中には、まだ […]

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  • 神様が与えた試練(2)


     皆さんが、私のように元気になりたいと、私を目標に頑張っておられるのですから、私にもしものことがあったら、皆さんから希望を奪うことになります。そんなことにならないよう、私は二度と悪くなることはできないと思っています。   […]

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  • 主人へのつきぬ感謝(1)


     56年11月頃、ミルク断食から帰ってまた腹水が溜まりだした最悪の状態のとき、自分の状態を客観的にみて、もうそう長くはないかもしれないと思ったことがありました。  でも、まだ歩くことができるのだから、まだ年内は大丈夫だろ […]

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  • 主人へのつきぬ感謝(2)


     決して入院することが悪いとは思いませんが、自宅療養ができるのなら、それにこしたことはありません。明るい日差しの入る部屋で、ゆっくり寝ていられた私は、恵まれていたのかもしれません。  人間は常に感謝の気持ちを忘れてはいけ […]

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  • 主人へのつきぬ感謝(3)


     また入院してから見舞に来ない日が、一日もありませんでした。何も話すことはなくても、ただそばにいてくれるだけで心が安らぎました。食欲がない私に、少しでもおいしいものを食べさせようと、夕方のラッシュ時に、遠くまで私の好きな […]

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  • 主人へのつきぬ感謝(4)


     銀婚式に、ハワイは行けませんでしたが、60年の春には、北海道、秋には台湾へ、主人と二人で行きました。夏休みには、小豆島へ家族全員で行き、何年ぶりかで海で泳ぎました。  今は、主人や子供たちに見守られ、本当に幸せな毎日を […]

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  • 主人へのつきぬ感謝(5)


     主人は高校のとき、医者になりたいと思っていたそうです。両親を早く結核で亡くし、にくい病気を撲滅したいと思っていたといっていました。しかし、戦後財産は封鎖され、両親は亡くなりで、その望みは果たせなかったのです。  学校を […]

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