涙の金メダル(2)

 会場には、京都、兵庫、大阪、奈良、名古屋など各地の代表が集まっていました。
 高校時代を思い出し、その日はさすがに緊張しました。年齢別のタイムレースになっていて、私は、自由形と平泳ぎとリレーの三種目に出場しました。その結果、自由形が銅メダル、平泳ぎとリレーが金メダルでした。
 ”昔とった杵柄”といいますが、癌で死にかけていた私に、このような力がまだあったなんて、自分でも信じられませんでした。

 高校3年のとき、友人にすすめられて水泳部に入り、はじめて出た福井県高体連の大会で、自由形で一着になって自分でもびっくりしたことがありました。そのとき、スタート台に立ったものの心細くて、救いを求めたいような気持ちで、応援席の先生を見ていたのを思い出します。

 今回も勝手がわからないまま出場して、どんな強豪が出場しているのか、とても不安でした。名古屋あたりからわざわざ来られる方など、よほど自信があるのだろうと思いました。とにかくまわりにいる人が皆、自信満々という感じに見受けられました。そんな中で、一着になれるなど思いもしませんでした。出るからにはベストを尽くさねばと、大会の二、三日前は一人でスタートの練習をしたり、力一杯泳いでみたり、自分なりには努力しました。
 でも、まさか金メダルを手にするなど考えもしませんでした。金メダルを手にしたときは、思わず涙がこぼれました。
 鎌倉の両親や会社の人に見せたら、皆、心から喜んでくれました。

 それは61年3月のことでしたが、12月にまた出場することになり、今度は宝塚まで遠征しました。そのときは平泳ぎ、自由形、メドレーリレー、フリーリレーの4種目に出場、力のかぎりを尽くしました。結果は、平泳ぎが金、自由形、フリーリレーが銅、メドレーリレーは残念ながら4位でした。

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この記事は昭和62年10月発行の書籍『「主治医」はだんなさま』より転載しています。


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