つらい検査の日々(1)

 次の日もお腹は痛く、歩くのがつらいほどでしたが、主人に会社を二日も休んでもらうのは悪いので、毛布など重いものは子供に車まで運んでもらい、門の横のガレージまでやっとこさ歩き車のシートに坐り込むと、自分で車を運転して、高槻市の病院まで行きました。

 昭和56年4月8日、次女の大阪音楽大学入学式の日のことでした。元気だったら私も式に参列したかったのですが、残念ながら私は入院。入学式を迎えた次女とまさに明暗二つに分かれてしまいました。

 やっと病院に着いたものの、順番を待つ間のつらかったことといったらありませんでした。とにかく、じっと坐っているのが耐え難く、どうにかなるのではないかと思いました。名前を呼ばれても声も出ないし、すぐに立つこともできず、何度も呼ばれてやっとこさ診察室へ入って行ける、そんな有様でした。他の人が心配そうに見ているようでした。自分に比べ他の待っている人がとても元気に見えて、この人達本当に病気なのかしらと、いぶかしくもうらやましくも思えました。

 幸い空部屋があり、そのまま入院することになりましたが、毛布などとても一人で運ぶ元気はなく、看護婦さんに車まで取りに行ってもらいました。
「一人で来られたのですか。よく来られましたね。何と気丈な」
 看護婦さんもびっくりしておられました。

 実は最初に入院したのもこの病院でした。そのときは婦人科に入院し、結局なんもわからなかったので、今回は内科へ行きました。内科の先生は、カルテを見るなり、「二十日も入院させておいて、婦人科の先生は何をしていたのだろう。とにかく今度は徹底的に検査しましょう」といわれ、その日のうちから栄養剤の点滴が始まりました。そして一週間くらい毎日いろいろな検査が続きました。

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この記事は昭和62年10月発行の書籍『「主治医」はだんなさま』より転載しています。


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