はよ、元気になりや(3)

 私達の結婚は主人の祖父の後妻に来た義理の祖母が、自分の子供がないので、どうしても自分の血のつながりのある娘をということで、以前から私をと、決めていたようです。というのも、私の父とその祖母は従兄弟にあたり、当の本人同士はまだ結婚など考えてもいないのに、さっさとお膳立てし、結婚とあいなったのでした。主人は25歳、私はまだ20歳のときでした。

 一年後に生まれた子供は、逆児で死んでしまいました。男の子でした。まだ若すぎて母親になる資格がなかったのかもしれないと、悲しみをこらえました。次の年、長女が生まれましたが、その頃主人は、仕事仕事で、めったに子供と顔を会わすこともなく、たまに顔を見せると、子供は人見知りして泣きだす始末でした。私達は三人の子宝に恵まれましたが、その頃になると、主人は、子供のためにも長生きしなくては、とよくいっていました。

 主人は、7歳で父親、13歳で母親を亡くし、兄弟四人苦労して大きくなった経験があります。私も、幼稚園のとき実の母を亡くしました。母は、熊本では名の知られた名家の生まれで、祖父は日野自動車を創設し、世界一周無着陸飛行をした飛行機のエンジンの設計なども手掛けたエンジニアでした。父も、熊本生まれで、五高から東大へと進み、前途有望な青年ということで、熊本選出の大物政治家で、祖父の従兄弟にあたる松野鶴平氏が仲人を務め結婚式をあげました。当時としてはとても華やかな結婚式だったと聞いています。

 しかし、多くの人々から祝福されて結婚したにもかかわらず、母は数え年27歳という若さで他界してしまったのでした。

 親のない悲しさをいやというほど味わった私達夫婦だけに、子供のために、絶対元気でいなくてはと思ったものです。その私が死の宣告を受けてしまったのです。子供達に、自分達の悲しみを味あわすことになるのか。いやそんなことは絶対にさせないという気持ちが、私の中にもありました。

 それはまた主人も同様であり、それがどんなことをしても妻を助けなくてはという頑張りに通じたのでしょう。日に日に弱って行く私を見て、主人は、一心に仏様、神様をおがんでおりました。

 そんな主人の姿を見て私も、よくならなくては申しわけない、どんなことをしてでも元気になろうと思わざるを得ないのでした。

この記事は昭和62年10月発行の書籍『「主治医」はだんなさま』より転載しています。


ページの
トップへ